醍醐寺について

歴史/縁起/祖師

歴史 / 縁起

総本山醍醐寺200万坪におよぶ広大な境内地にそびえる国宝五重塔は、静かに1,100年以上の時の流れを語り伝えています。

京都御所の東南、東山を越えると山科盆地がひろがり、この地は古くから大和・宇治・近江を経て遠く北陸に到る幹線道路があり、平安京の東南近郊の一地区として注目されて来た場所です。醍醐寺は、この盆地の東側、笠取の山頂にかけての広大な地域に位置し、山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と称しています。

平安時代の初期、聖宝理源大師は、自刻の准胝・如意輪両観世音菩薩を開眼供養し、醍醐寺開創の第一歩を上醍醐に標し、以来、醍醐天皇、穏子皇后の帰依のもと、上醍醐に薬師堂を建立、薬師三尊を奉安、鎮護国家のために五大堂を建て、五大明王を奉られました。
醍醐寺縁起は醍醐寺開創について、『ある日、聖宝が深草の貞観寺から東のほうをご覧になると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山に登り山頂に着いたときに「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。谷間をご覧になると、一人の老人が湧き出る水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。聖宝は老人にこの地に寺院建立をしたいと声をかけられました。老人は、「ここは、諸仏・諸菩薩の雲集する地で、私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」とおっしゃられ、姿を消されました。』と伝えています。この水は醍醐水と呼ばれ、現在も枯れることなく湧き続けています。
さらに下醍醐に釈迦堂を建立し、山上・山下にわたる壮大な寺院計画がなされました。醍醐天皇の願いは、朱雀天皇・村上天皇に受け継がれ法華三昧堂・五重大塔が建立され一山の尊容が整いました。

平安時代末には、白河上皇・源氏の帰依と共に多くの堂宇が建立され広大なる一山の整備がなされ、鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場としてその権威を高め、同時に多くの密教芸術を生み出しました。南北朝には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊座主、足利義満将軍率いる室町幕府において黒衣の宰相と言われ重んじられた満済准后、桃山時代の義演准后は、秀吉の帰依のもと「醍醐の花見」をもって一山を中興、江戸時代の高演座主は、修験道(山伏)3千名を伴い二度にわたる大峯山入峰をなし、修験道興隆を計る等々、歴代磧徳を迎え寺は護られて来ました。

しかし、近代、明治の廃仏毀釈、昭和の農地解放の悲風は容赦なく山内を吹き荒れ、寺領は返還し寺の護持基盤が大きく揺れるなか、歴代相承の什宝は、あたかも浄水を一滴ももらさず器から器へと移すがごとく伝承されました。

今日、一山は永世護持のため全山「史跡」に指定され、さらに平成6年12月には「世界文化遺産」に登録されました。まさに世界的な「木の文化」「紙の文化」の宝庫と認識するとき、着々と伝承される法流血脈のもと祈り続けられる信仰の尊さを思わずにはいられません。

現在、醍醐寺は、総床面積1千坪の霊宝館に於いて、国宝6棟、重文10棟を含む92棟の建造物及び信仰対象の諸尊像を除く一切の文化財を管理保管しています。

五重塔 平安時代(国宝)

醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。京都府下最古の木造建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。

醍醐水

京都醍醐寺開山にまつわる名水です。醍醐寺創建以来多くの人々を潤してきました。古来よりの湧水を絶やさないように醍醐山の自然環境保全に努めるとともに取水は制限しております。

祖師 ※理源大師坐像 (開山堂・重文のもの)掲載

醍醐寺の開山・聖宝は、天長9年(832)讃岐の塩飽諸島の本島(現在の香川県丸亀市本島正覚院)に御誕生、承和14年(847)16歳の時、真雅僧正の室に入り得度・出家されました。以来、東大寺の東僧坊南第2室に住し、元興寺の願暁阿闍梨・円宗阿闍梨に師事し、三論を学び、東大寺平仁阿闍梨のもとで法相を修学されました。さらに東大寺玄永阿闍梨に華厳を、真蔵阿闍梨のもと律を学ばれました。この間、金峯山をはじめ霊山に抖櫢し峰中修行を実修し大きな祈りの世界を感得されました。

当時、日本仏教の主流は、中国から請来された厖大な経論や注疏を解釈し、教理を構成することでありました。聖宝は、この風潮の中で、なにより教理を実践することの重要性を思惟し、教理を実践する具体的な方法を模索されました。40歳になられた貞観13年(871)、師僧・真雅僧正より「無量壽法」を受法されました。道場を荘厳し、行者は威儀を正し阿弥陀如来を観想することに始まる修法の世界は、聖宝の心に教えと祈りの真の融合と映り、これを包括し、深めていくことに教理の実践の道を見出されました。それは、教相と事相を確立し、伝授という具体的な礼儀を通して伝承する姿です。峰中修行で感得された大きな祈りの世界。無量壽法を通して得た修法の世界。この二つは聖宝の祈りの世界に於いて大切なことです。

特に峰中修行で得られた大きな祈りの世界を「霊異相承」という言葉で表現し、「恵印法流」を感得されました。これは山中で神変大菩薩にお会いして、一つの法を授かりましたということで、目に見えない心のお話です。この目に見えない心のお話を大切にすることによって、神変大菩薩が山岳で修行してきた祈りの世界を、密教の祈りと結び付けて、いわゆる山伏、修験道の祈りの形態として開かれたのです。

またまた聖宝は、醍醐寺を開創されて間もなく、東大寺に真言院を建立されました。そして、「真言密教の教法」と「無量壽法」を東大寺へ伝えられました。

聖宝は、その出発点において、自身の心に内在する「霊性」を大切にされる「祈りの実践者」であり、そのお姿は五次元の世界を観想しての大きな思惟です。

聖宝は准胝観世音菩薩と如意輪観世音菩薩の二体の観音像を謹刻され、そして小さな庵を建て醍醐寺を開創されました。この小さな庵に時の帝・延喜帝が大きな御誓願を込められました。ご自分の母方の祖父母が、准胝観世音菩薩に願をかけられた結果、母君の胤子がご自分(延喜帝)を身ごもられたという、出生にまつわるお話をお聞きになって、当時お子様に恵まれなかった延喜帝は、一心に准胝観世音菩薩に祈られ、穏子皇后との間に二人の皇子、後の朱雀天皇、村上天皇がお生まれになりました。

延喜帝はこのご信仰から、ご自身の名を「醍醐」と諡られました。そしてそれ以来、「醍醐天皇」とお呼びするようになりました。

醍醐天皇の御誓願は大きく注がれました。ご自身が祈りを捧げられた准胝観世音菩薩の霊験のもと、聖宝に薬師如来をおまつりし、多くの人々の病の癒しを祈ることを命ぜられました。聖宝は会理というお弟子にこの御誓願を託し、薬師三尊を謹刻なされ祈りを込められました。以来「薬師如来」は、醍醐寺の信仰の一つとなっております。

醍醐天皇の大きな御誓願は、聖宝を通じて醍醐寺一山の信仰として民衆の心の中に生き生きと伝承されています。尊いことです。

理源大師像(木造) 鎌倉時代(重文)

開山堂建立当初は、醍醐寺一世観賢座主の自作による聖宝像が奉安されていたが、お堂の焼失とともに失われてしまった。現存のものは、鎌倉時代に開山堂が再建されたときに、新たに造立されたものである。寄せ木造りに彩色を加えた木彫像。

開山堂 桃山時代(重文)

醍醐寺の開山、聖宝・理源大師を奉安したお堂。最初は御影堂(みえどう)といい、延喜11年(911)に理源大師の弟子、醍醐寺第一世座主、観賢僧正によって建立されましたが、後に焼失。鎌倉時代に再建されたものの荒廃してしまいました。現在のお堂は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建されたもので、雄大な桃山時代の特徴をよく表した山上最大のお堂です。
お堂の内陣には、中央に醍醐寺開山聖宝理源大師像、左に真言宗宗祖弘法大師像、右に醍醐寺第一世座主・観賢僧正像が奉安されています。